首藤剛志のふらふらファイル箱

人並みのつもりにしては、ふらふらしています。

鬱状態の原因?

ブログの状態は相変わらずである。
 MACウインドーズに変えればどうにかなるかもしれないのだが、すでに六台もある歴代のMAC(今も動いている)を勝手の知らないウインドーズにするには相当な決意が必要な気がする。

 さて、僕は二〇代前半、一ヵ月ちょっと、パリにいた事がある。
 さして目的のない貧乏旅行で、セーヌ左岸の☆印もないぼろホテルにいて、あてもなく街をぶらつく毎日だった。
 観光名所に興味が持てず、エッフェル塔にも凱旋門にもいかず、その代り、時間を潰せる美術館や映画にはよく行った。
 美術館など、名のあるところはほとんど行ったと思う。
 そして、著名な美術品の数々を観ながらも、実は感ずることはあまりなかった。
「はあ、こんなもんか……」ってな感じである。
 僕は絵も描けないし、もちろん彫刻など作れはしないが、人間、一生懸命やれば、美術や芸術分野はともかく、書く事でならこの程度のことはできるだろう……ひどく不遜な気持でいたのである。
 何しろ、二〇才前半の僕である。
 すでに、テレビ番組の脚本を書いていたから、自分だけの気分としては前途洋々でなんでもできるつもりだった。
 美術館の展示品など、せまっ苦しいところにいくつも並べられ、ぞろぞろ続く見物人の目にさらされて気の毒だなと思った。
 ナポレオンだの誰それさんだか知らないが、世界中の芸術品を権力や金の力で、集めて見せびらかしているのが、……もっとも、自分の所有物にして、それを自分の部屋に飾り一人で悦に入っている人も、どうかと思うが……その数が膨大なだけに、気分が悪くなってきた。
 つまり、僕の二〇代前半のパリの美術館の作品は、人が騒ぐほどたいしたものに思えなかったのである。
 だが、先日、パリに行って、同じ美術館(ルーブル)で同じ作品を観た僕は、ひどく憂鬱な気分になった。
 そこに展示されている作品のほとんどが、作者の年齢が僕と同じぐらいか、それ以下の若い歳で完成されている。
 僕が二〇代から今までの時間の内で、作者達は、……あえてその人たちの作った作品を名作、傑作とは、僕は呼びたくないが……、それぞれの作家達は、僕からすれば気の遠くなるような努力と手間とあふれる才能で、作品を完成させてしまったのである。
 それに引き換え、僕は二〇代から今まで、いったい何を作ったのだろう。
 それを思うとひどく憂鬱なり、逃げるように美術館を出た。
 他の美術館も二・三、行ってみたが、やっぱり同じ思いにさせられて、三〇分といられなかった。
 美術鑑賞等とてもする気にならず、美術館に展示された作品群の威圧感に圧倒され美術館から追い出された気分である。
 パリは美術館だけでなく街自体が芸術品ぽいところもあるから、そんな街中を歩くのも憂鬱だった。
 東京に戻って、本棚の奥から日本名作全集のようなものを読んでみた。
 そして、更に憂鬱な気分にさせられた。
 その全集に入っている日本の名作といわれる作品もほとんど、僕より下の年齢の時に書かれている。
 再び思う。
 僕は二〇代から今まで、いったい何を作ったのだろう。
 なんだが、随分、時間を空費したような気がする。
 僕にはまだ書こうと思うものがいくつもある。
 しかし、モノを書くのは、相当の体力と気力が必要とされる。
 ぼけ等も計算すると、年齢的にあと、よくて一〇年ぐらいしか書けないだろう。
 それを思うと憂鬱になり、食欲がなくなり、体力も気力も失せてくるのが実感として分かる。
 書かなければと言う気持と、食欲不振で衰えた体力と気力が、僕の中で喧嘩している。
 しかし、その喧嘩する気力さえ衰えてきている。
 見慣れた渋谷の雑踏も憂鬱の素になり、出歩くのも面倒で、仕事場に引きこもり、人と話すのは電話ぐらいだ。
 それも、今は面倒くさい
 せめて、規則正しい生活をして、三食と睡眠時間を取ろうと思うが。それも、うまくいかない。
 規則正しい生活をするには、病院に入院して物を書くのがいいのだが、こんな程度の軽いうつ状態では、病院の方から入院を断られ、抗うつ剤睡眠薬を処方されるのが関の山だろう。
 近いうちに、小田原、伊豆、箱根にでも行こうと思う。
 気分が、少しは変るかも知れない。