首藤剛志のふらふらファイル箱

人並みのつもりにしては、ふらふらしています。

風化して行く悲劇

杉並アニメーションミュージアムのビデオインタビューを受けた。
 ビデオのカメラの前では、さすがにおちゃらける訳にも行かず、まともにインタビューに答えたが、
ふと我に返ると、随分、真面目に話している自分に気がついた。
 自分では、随分いい加減な人生を送ってきた気がしていたが、案外、根は真面目なのかもしれないと、いまさらながらに新しい発見をした気分だ。
 インタビューが終り、仕事場に戻って、原稿を書いていると、娘から電話があって、夕食を渋谷でしないかと誘われた。
 娘がお気に入りにしている「すうぷ屋」という店である。
 先週、里帰りのついでに、広島に立ち寄ったらしいので、その感想を聞いた。
 娘の感想は「人間が作り出した数千度の熱(原爆)を、人間が人間に使うなんて怖い……」との事である。
 もっと、十一歳の娘らしい感想が聞きたかったが、それは無理な注文かもしれない。
 広島で起こった事が、人間の歴史上、大惨事である事は、誰でも分かるだろう。
 だが、どれほどの悲劇だったかは、原体験のない僕たちには、実感として感じられないまま、時間が経つとともにどんどん風化してして行ってしまう。
それは「戦争をしらない子どもたち」である僕にも、責任があるのかも知れない。
 僕が書いた脚本にも若いプロデュサーの鶴の一声で、「ルギア爆誕」などという僕たちの歳ごろには、無神経な題名が、付けられた。
 僕の歳ごろでは「爆誕」と聞けば、イメージするのは、まず胎内被爆した人たちの事だったが、若い……と言っても四十代だと思うが……プロデュサーには、かっこいい言葉に思えるらしい。
 さすがにアメリカで上映する時は「ルギア黙示録」と言う題名に変えられたらしいが、僕より、ほんの少ししか歳の差のない人には、核アレルギーなど、存在しないのだろう。
 僕が小学校に入った頃には、上級生のなかに胎内被爆で生まれてきた人がいてもおかしくない時代だった。
 すくなくとも僕らの歳ごろに「爆」と言う字に。かっこ良さを感じる人は少ないはずだ。
 悲劇的事実が、風化して行くのを、止める事は出来ないのだろうか……