首藤剛志のふらふらファイル箱

人並みのつもりにしては、ふらふらしています。

不思議なおばあさん

先日の事である。
 夜の八時頃、帰宅途中、渋谷、松涛の住宅街を歩いていた。
 昼でも人通りの少ない住宅街だけに、夜は、ほとんど誰も歩いていない。
 そんな道を、一人で歩いていると、後から、声がした。
「もしもし……すいません」
 振り返ると、おばあさんが立っていた。
「コーヒーが飲みたいんですが、このあたりに、お店はありませんか?」
 と、聞いてきた。
 住宅街の真ん中である。
 コーヒー・ショップや、喫茶店がある筈がない。
 ご老人なのに、コーヒーが飲みたいというのも変だ。
「東京は、今日が最後なんで、どうしてもコーヒーが飲みたいんです」
 と言う。
 どうしてもというので、住宅街に一番近いコーヒー・ショップへの道を教えた。
 すると……
「そんな、遠くまでは歩けません。でも、こんなに親切に、教えてくださった方ははじめてです……お礼にこれを……」
 と、手ににぎっていた四角く折り畳んだ紙を、手渡そうとする。
 暗くてよく見えないが、お金のようだ。
「とんでもありません」
 と、僕は、何度も断った。
 僕はただ道を教えただけである。
 お礼を貰うほどの事などしていない。
 しかし、おばあさんは、どうしても、受け取ってくれという。
 「こんな人通りのない所で、二人で言い争いしているように見えると、他の人にどう思われるか分からないから、受け取って下さい」
 おばあさんは、無理矢理、僕の手に折り畳んだ紙を押し付けると、足早にその場を去って行った。
 暗がりで折り畳んだ紙を広げてよくよく見ると、五千円札だった。
……こんなお金は、いただけない。
 僕は、あわてて、お金を返そうと、おばあさんの後を、追おうとした。
 しかし、もうその時は、おばあさんの姿はどこに消えたのか見当たらなかった。
 その時の五千円札は、まだ、僕の手元にある。
 その後、同時刻に、同じ道を何度か通ったが、おばあさんらしき人とは今のところ出会わない。
 道を教えただけで、五千円……こんな事は初めてだ。
 僕は、今も、その五千円を持って途方にくれている。
 あのおばあさんは、なんだったんだろうか?