首藤剛志のふらふらファイル箱

人並みのつもりにしては、ふらふらしています。

「椿三十郎」黒澤明監督版

昔の映画で、傑作だとか、名作だ、と評価の固まった作品だとしても、どうしても、僕にとっては駄目な作品がある。
 黒澤明監督の作品……特に、監督の最盛期と言われる時期に作られた一連の作品が、僕には肌に合わないのである。
 どうしてだか分からないので、近く森田芳光監督によってリメイクされるという「椿三十郎」の元になる黒澤明監督のオリジナル作品をDVDレンタルで観た。
 この映画、子供の時、親に連れられて観に行った憶えがあるが、それ以来、一度も観ていない。
 黒澤明作品は、ほとんど劇場やビデオで観ている筈なのだが、「椿三十郎」に限らず、なぜか二度と観る気がしなかった。
 今回のDVDは、聞き取りにくかった音も良く、画像もきれいに処理されている。
 仕事場のプロジェクターで、かなり大きなスクリーンに写して、一人で観た。
 で、見終わった後、吐き気がして、今も食欲がない。
 別にラストの有名な決闘シーンが、気持悪かった訳ではない。
 それ自体は、今観てもダイナミックなシーンであると思う。
 だが、全体を通して「椿三十郎」を観て、黒澤明作品が、なぜ、僕の肌に合わないか、よく分かった気がした。
 娯楽時代劇として傑作の評価がすでにあるのだが、主人公の「椿三十郎」の設定が変なのだ。
 この作品のあらすじは、素浪人ですご腕の椿三十郎が、小藩の汚職騒動に巻き込まれ、正義側だが若い少数派に味方して、悪をぶった切るというものなのだが、実際は、巻き込まれたわけではなく、ほっておけばいいのに、おせっかいにも自分から首を突っ込んで、ばったばったと悪の手下を斬りまくるのである。
 悪の手下と言ったって、下っ端は、上司の命令で動いているだけで、おそらく、悪に加担しているかどうかも自覚していないだろう。
 それを、問答無用で、斬り殺してしまう。
 汚職は悪だ……だけの理由、正義の少数派が頼りないから味方する……悪の方から観れば、凶暴な通り魔の殺人鬼である。
 正義の為なら何をやってもいいのか……脚本と演出は観客にそんな疑問を抱かせる間も与えず、テンポよくダイナミックに、時にユーモラスに進んで行くが、よく考えると、ストーリーの展開はそうとうご都合主義である。
 ニヒルでクールな敵役のすご腕も(といっても、その剣の腕前を見せるシーンはない)椿三十郎の事をまるで疑わず、最後になって、「よくも俺を裏切ってコケにしてくれたな」と、まるで、同性愛で盲愛していた恋人に振られた男のように対決を挑んでくる。
 この人、ニヒルでクールなすご腕なら、もうちょっと頭のいいやり方を考えそうなものだが、映画史上に残る有名な決闘シーンの為だけにいるような存在である。
 椿三十郎なる人物は、結局、彼自身の人生には直接関わらない人達を、正義の名目で、散々ぶった切った上で、「本当の良い剣は鞘に収まっているものだ」などとのたまって、どこかに行ってしまう。
「本当の良い剣は鞘に収まっているものだ」という台詞は、他のシーンでもこの映画のいいわけのように出てくるが、ちっともテーマにはなっていない。
七人の侍」のラストで、「戦いに勝ったのは侍の我々ではなく農民たちだ」というような台詞があるが、作品のテーマになっていないのは、「椿三十郎」の場合と同じである。
 正義の為には、ダイナミックに豪快に……脚本と力任せの演出で、観客を無理矢理、納得させている。
 だが、その正義は、黒澤明監督の正義で……僕にはどこかゆがんで思える。
 黒澤明監督の他の作品における正義やヒューマニズムも、どこか、問答無用の手前勝手な……例えれば、アメリカの正義とヒューマニズムのような、相手の気持を考えないごり押しを僕は感じてしまうのである。
 黒澤明監督の最盛期の作品は、強引な演出力があるだけに……もう分かったよ。もう結構……と、僕などはうんざりして逃げ腰になる。
 監督の最盛期が過ぎると、その強引さが、形式的なしつこい演出に変ってくる。
 しかし、監督の持つ身勝手な正義とヒューマニズムは変らない。
 僕は、それに付き合える感性も体力もない。
 それが、今日見た「椿三十郎」でよく分かった。