首藤剛志のふらふらファイル箱

人並みのつもりにしては、ふらふらしています。

「獣装機攻ダンクーガノヴァ」

 首藤剛志という脚本家がシリーズ構成をする作品の最終回はいつも変っている。
 賛否両論のどんでん返しや、びっくりENDがほとんどなのだが、今回もびっくりした。
 当初の設定や、登場人物の掘り下げなしに放りだした凄い脚本である。
 たまたま、首藤の書いた最終回の脚本を読んだのだが、できあがったアニメは、ほとんど脚本と違っている。
「弾新生」という脚本家が、最終回を書き直したらしいが、それがどんな脚本家か僕は名前は知っているが、その人が書いた最終回の脚本を、読んだ覚えは無い。
 聞いた話だが、首藤の書いた脚本に近いものは、後で発売されるCDドラマでやるらしい。
 そもそも、首藤の構成がひどい。
 普通全十二話ぐらいの作品なら、最初から最終回がどうなるかを考えて、初回から設定や登場人物を考える筈なのだが、まるでそれが機能していない。
 最初の構成案では、最終回に十分間近い一人台詞が続くという、いままでのアニメや実写ドラマでは観た事のないラストになって、非難轟々になる覚悟だったらしいが、それらしい実験性は、アニメにはかけらもない。
 その実験はCDドラマの方にもない架空のものになったようだ。
 そもそも、二十二世紀だという設定、五十歳が人間の寿命だという設定、ロボットが正義や悪に関係なく弱いものの味方だという設定は、どうなったのだろう?
 女性ジャーナリストや少女カウンセラーやロボットを操縦するアイドル歌手は、この作品にとって重要な意味がある筈なのに、何の為に登場しているのか全然分からない。
 ホームレスの素性も分からないし、最初の方に出てきた、葵というレーサーの恋人らしい男も、麻薬捜査官くららの相棒も、出てきただけのしり切れトンボである。
 FSというリーダーが、最後に大活躍する筈だったらしいが、それもない。
 DVDにする時に、デレクター・バージョンという名の最終回の長尺を作って、そこらを解決するという話もあったらしいが、どうなるかは分からない。
 どうしてこんな事になったのか、今となっては薮の中である。
 だが、シリーズ構成としての首藤の責任は、問われても仕方ないだろう。