首藤剛志のふらふらファイル箱

人並みのつもりにしては、ふらふらしています。

「バベル」

意志の疎通ができない。相手の気持が分からない。結局、人間は孤独である。
 せめて、お互いの心の一部でも分かり合いたいよ……ってなことを、テーマにしているらしい事は分かるのだが、この映画、肝心の観客との意志の疎通がとれていない。
 アメリカに、モロッコ、メキシコ、日本、更に、聾唖者による手話、様々な言葉が、飛び交うが、観客は、字幕で登場人物が、何を言いたいのかは読める。
 つまり、観客には、登場人物がしゃべっている言葉の意味は分かるのだが、この映画全体が、何を表現したいのかのかが、いまいち分からないのである。
 夫婦の溝を埋めるという手前勝手な理由の為に、わざわざモロッコに観光に来たアメリカ人の傲慢さ……つまり、どこの国に行っても偉いのは俺達だという気分……を揶揄したいというなら分かる気もする。
 そして、もうひとつ、外国人にとって、いまだ日本人は未知の人種である。……と言う事がテーマなら、これもなんとなく分かる気もする。
 なにしろ、日本人の僕が観ても、この映画に出てくる日本人は、なにがなんだか分からない。
 言葉が通じないなら、心を色情的態度とヌードで見せようよ……みたいな聾唖者の少女など、見た目は痛々しいけれど、その気持が少なくとも僕には理解できない。
 だけど、「バベル」の作り手達は、そんな事だけを表現したかった訳ではないだろう。
 世界のあっちこっち、カメラを持って駆けずり回ったけれど、言語がバラバラになってバベルの塔を作り損なった旧約聖書の人間達のように、映画「バベル」自体が、造り損なってバラバラになってしまった感じがするのは、僕だけだろうか……。
 ところで、素朴な疑問なのだが、いくらベンツに乗った日本人のお金持ちだとしても、狩猟を趣味にしている人は多いかもしれないが、わざわざ、外国まで猟銃持ってハンティングに行くのを趣味にしている日本人って普通なのだろうか?……この映画のそもそもの発端は、その金持ちの日本人の持っていた銃から始まっているだけに、なおさら、気になってしまう。
 もしかしたら、「意志の疎通の難しさ」という名目で、世界に貧困格差や様々な壁を作り出している日本とアメリカを批判するのが、この映画の目的だとしたら、まあ、なんとなく、僕にも分かったような感じにはさせられるのだが……。
 上映時間も長くて疲れる映画である。
 そして、ついでに僕自身の家族の意志の疎通はどうか?と考えると、頭が痛くなる嫌な映画だ。