首藤剛志のふらふらファイル箱

人並みのつもりにしては、ふらふらしています。

気がつけば……いまさらながらに新年です。

気がつけば、年が明け、風邪をひき、とりあえずやらなければいけないことを続けているうちに、もう一月も後半です。
 いまごろ、あけましておめでとうございますもないのですが、まずは、ご挨拶……。
歳をとればとるほど、時間が経つのが早く、首藤剛志としての残り時間が、少なくなっているのを感じます。
生まれてきた以上やらなければならないと思っていたことは、全くやっていないし、つまり、とりあえずとりあえずで生きてきたような気がしています。
とりあえずの人生で、終わるのも嫌なので、もう少し頑張ってみます。
えらそうなことを言うようですが、時間は大切です。
過ぎた時間は戻ってきません。
無駄のない時間の過ごし方をした人生だったと自分が死ぬ間際に思えるような人生にしたいものです。
インターネットのアニメスタイルというコラム集の中で、僕の書いた過去の作品のことを思い出して
書いていて、実際に昔の作品を見返すと、そこには、今の自分とは違う自分が生きていて、その時々は無駄に過ごしてはいなかったとは思うのですが、それらをまとめると、どうも、首藤剛志という人間が、自分でもよく分からないのです。
まとめると、ずいぶん、無駄な生き方をしているやつのような気もしますし、たまたまですが、去年、日本人のノーベル賞受賞者が4人も出て、その方達は、人間にとって直接、重要にも思えないこと……つまり、無駄なことを一生懸命研究して、結果、人類にとって無駄にならないことをしていたわけで……
これまた、たまたまですが、東京の新宿でデビット・リーン監督の名作として名高い「アラビアのロレンス」の完全版というのが上映されていまして、この映画の脚本は、僕が今まで見た映画の中で3本の指に入る傑作だと思うのですが、ファーストシーン、ロレンスがオートバイで事故死するところから始まり、葬式に集まった人びとのそれぞれのロレンス観によるロレンスが映像化されていくのですが、この映画、4時間近くも上映時間があって、結局、ロレンスの人生が、世の中にとってどころか、本人にとってすら有意義なものであったか、無駄であったか、良く分からないまま、ぷつんと終わります。
 この脚本の終わり方に、この映画を最初に見た10代の僕はびっくりしました。
、歴史的には、ロレンスは古代から現代まで続いている中東問題の無駄な駒のひとつにすぎないのですが、ロレンス自身にとって彼の人生はどうだったのかが、自分の人生に対する総括的な自己評価が、映画の中では、アラビアを去るロレンスの表情でしか描かれていません。
 アラビアを去ってから、イギリスで事故死するまで、そうとうな時があり、その間には、それなりのロレンスの人生があったのでしょうが、そこは、映画にはでてきません。
 ロレンスは、自分の生涯をどう思っていたのでしょう。
 突然の事故死ですから、(観る人によっては無謀運転の自殺のような感じがするかもしれません)彼の生き方が無駄かどうかなど、本人も考えていなかったかも知れず、そこが、この映画の脚本の凄さの一つだと思います。
 死ぬ時は僕の人生、無駄だったと自分だけでも思いたくはない僕ですが、そんな思いを持つ余裕もなく
事故のような死は訪れてくるかもしれず、頭が呆けて周囲に迷惑をかけながら死ぬかもしれず、得体のしれない嫌生感に襲われて自殺してしまうかもしれないし……だから、今は、時間を大切にして、無駄のないように生きろ……ということなのでしょうが……みなさんは、今年もお元気で頑張ってください。
 あ、「アラビアのロレンス」は、今はない70ミリ映画の超大画面の魅力を充分に見せつけてくれる映画です。
 その魅力は、家庭のテレビや、普通の劇場では無理です。
 大画面の劇場がなくなってきている今、今回の劇場上映が、「アラビアのロレンス」という映画の素晴らしさを体感できる最後の機会かもしれません。
 僕に限って言うなら、この映画を見るためだけに、北海道や沖縄に住んでいても、東京の新宿に行くと思います。
 超遅れた新年のご挨拶から、映画の紹介まで、いったい、僕は何を書いているのでしょう?
 物書きの書く文章ではありませんね……
 では……