首藤剛志のふらふらファイル箱

人並みのつもりにしては、ふらふらしています。

いつの間にかゴールデンウイークもすぎちゃって……

休んでいるのか仕事をしているのか訳が分らないゴールデンウイークが、あっという間に過ぎてしまいました。
 物書きなんて、ボーっとしているようで何か考え事をしている場合が多く、仕事と休みの区別がつかないんですよね。
 しかし、ゴールデンウイークで、楽しみなのは、通常、人並みの仕事をしていて文字通り休日の日が休みの友人たちと、僕の仕事とはあまり関係のない世間話ができることです。
 友人たちも、物書きという仕事が珍しいこともあってか、僕と会って世間話をすることが結構、面白いらしい。
 高校時代は、よく一緒に映画を見に行ってた友人が「もう、首藤は見ただろうけど、あれは面白かったね」……その映画を僕は見ていませんでした。最近のアカデミー賞作品って、あんまり面白いのがなかったので……外国映画賞の「おくりびと」も日本風俗をいかにもアメリカ人好みの人情コメディに仕上げたようで、悪いとは言わないけれど、まあ、そこそこだったし……本命の作品賞他、各賞をのきなみとった「スラムドッグミリオネア」も、インド風俗をイギリス人が監督した映画で、あまり期待していなかったんですね。
しかし、高校時代の友人の映画鑑賞眼は、昔からしっかりしていたので、翌日、見に行きました。
びっくりしましたよ。いいも悪いも、見て損のない映画です。
年に一・2度しか映画館に行かない人にもお勧めです。
このブログでは、映画的、脚本的に専門的なことをあまり書く気はないのですが、一般的な脚本の教本には、やってはいけないと書かれていることがいくつかあります。
いつか、脚本専門の別のブログでかこうとおもっていたのですが、脚本で極力避けること。書いてはいけないことがあるそうです。
それは回想シーン……何事かを描くとき回想を使うとそのシーンの説明にすぎなくなるからです。説明はドラマではない。ごもっともといえないこともない。
偶然シーン……どこかを歩いていると偶然、向こうから恋人が歩いてくる。というようなトレンディドラマでよくあるやつですが、これを使うと、何でも、偶然で話が展開する。安易なドラマになるというのです。ドラマは、必然性を大切にしなければならない。これもごもっともといえないこともない。
夢落ちの脚本……何が起ころうと、それは夢でしたの結末ではなんだって書けるじゃないですか。
まあ、確かにそうかもしれません。
そして、登場人物を精神異常者にすること。精神が異常なら、その人がなにをやっても、「あいつはキチ○○だから、なにをやっても仕方がない」でかたづいてしまう。
そして、ちょっと高度ですが、作者が、主人公を愛しすぎないこと、主人公の気持ちににのめりこまないこと……脚本には、テーマが必要です。しかし、テーマを語るのに冷静さがないと、押しつけがましい脚本になる。
 偉い先生は、脚本の初心者に、以上のようなことを教えてくれます。
 でも、僕個人は、必ずしもそうは思わない。
 確かに、偉い先生の忠告を守らなかったために、ろくでもない脚本になった例も多い。
 しかし、あえて、忠告を無視した傑作も多い。
 例をあげればきりがない。名作といわれる映画の半分以上が、いわゆる初心者向けのお約束を無視していると思うのです。
 僕の脚本も、正直、ほとんどが約束無視です。
 できの良し悪しは別にしてもね。
「スラムドッグミリオネア」は、よくやるよとあきれるぐらいの約束無視で、それがうまく機能している。
 脚本家も演出家も意地になって、約束無視をして、最後まで見せきってしまう。
 久しぶりに脚本の出来に感心しました。
 回想と偶然の組み合わせに、脚本家がいかに苦労したかは誰にもわかるでしょう。
 夢落ち? あのストーリーが夢でないと誰が言いきれるでしょう。
 狂気?、あの映画で描かれた悲惨が、狂気なのか現実なのか、インドの現状を世界のほとんどの人が知らない。だから、狂気 現実、悲惨、本当の現状はもっとすごいのか、そのぼかし方もうまい。
 キリスト教イスラム教の仲があまり良くないのは知っています。
 しかし、イスラムとヒンドゥの確執はよくは知らない。
「キチ○○は何をやっても仕方がない」の視点ではとらえられない。
「貧乏は悲惨だなあ」という当たり前の感慨も、生き抜くために輝く子供たちの瞳と生きざまのたくましさに同情の域とは別の地点につれていってくれます。
 そして、テーマです。
 インド映画名物で描かれる、ラストの押しつけがましさ。インド映画へのインスパイアというより、イギリスの映画監督のインドに託した「やってやるぜ」の人生讃歌でしょう。
この映画のラストで、僕の大好きなイギリス映画を思わずにはいられませんでした。
僕が10代の終わりごろ見た「ジョアンナ」という日本ではほとんどヒットしなかったイギリス映画です。
 ビデオもDVDもまだ出ていません。
 田舎からロンドンに出てきた女の子が、挫折して田舎に帰る汽車に乗ります。
 そのラストシーン、当然駅です。
 このままでは、アンハッピーエンドです。
 と、突然、合唱が聞こえます。
 「ジョアンナ、がんばれ!」という意味の歌詞です。
 誰が歌っていると思います?
 カメラが引いて、駅の構内が写し出されます。
 合唱しているのは、この映画「ジョアンナ」を作った監督、カメラマン、照明、おそらく、スタッフ、キャストのほとんどが、歌い踊りながら「ジョアンナ」の応援歌を歌っています。
 ジョアンナはうれしさでいっぱいの表情で、みんなに手を振りながら汽車に乗っていきます。
 ジョアンナという主人公の女の子を、大好きなスタッフが、ラストを強引にハッピーエンドに変えてしまったのです。
 「ジョアンナ」以後、こんなラストを真似した映画もありましたが、僕の知る限り、この映画に勝るものはありませんでした。
 おそらく、「スラムドッグミリオネア」の監督は「ジョアンナ」を意識していたでしょう。
 しかし、真似ではないでしょう。
 この監督は、そのラストをインドの駅でやった。
 イギリスは長い間、インドを支配していた。
 インドの悲惨の責任をイギリスは逃げることはできないでしょう。
 世界中の映画に名作があります。
 しかし、一番愛すべき映画を選べと言われれば、僕にとって、それは「ジョアンナ」です。
「スラムドックミリオネア」の監督にとっても、そうだったのでしょう。
ジョアンナ」の監督は、僕の知る限り2本の映画だけで消えてしまいました。
 だから、「スラムドックミリオネア」の監督が見ただろう「ジョアンナ」は10代か20代の忘れ得ぬ映画として、余計、印象に残っているのかもしれません。
 僕もそうでしたから……
「スラムドッグミリオネア」の監督は自分の見た愛すべきラストを愛すべき自分の映画で使いたかったのでしょう。
 イギリス人がインド映画を監督するなんて傲慢だ……という声もあるでしょう。
 「ジョアンナ」のラストは、幸せとは言えない女の子への応援歌でした。
 めちゃくちゃ強引なラストでした。なんでもいいから、ともかくハッピーエンドにしたのです。
 ジョアンナという女の子のこれからの人生のために……
「スラムドッグミリオネア」の主人公は、大金持ちになり、恋人とも出会える。
 しかし、それは、インドにとってハッピーエンドとはいえない。
 この映画の監督にとって、掟破りのハッピーエンドが欲しかったのです。
 そして、インド映画名物でそれをやった。
 しかし、それは、いつものインド映画名物とは、いささか使い方の意味が違う。
 その強引さが見事だと思います。
 自分の好きなラストを、自分の意に沿わない作品のラストには使わないでしょう。
 つまり、誰が何と言おうとハッピーエンドをインドで作りたかったのです。
 昔のイギリスは今のアメリカでしょう。
 最近のアメリカ映画は、ヒーローものまで、なんだか、暗くて反省しています。
 ほんとうは、「スラムドッグミリオネア」のような映画を作りたいんでしょうね。
 お暇だったらお勧めします。
 多少のカルチャーショックは味わえるかもしれません。

 で、話はがらりと変わりますが、日本で大ヒットの「ヤッターマン」……中学生の娘が見たのですが、その理由は、けっして「アラシ」とかいうグループの一員で「クイズショー」というドラマの司会者役をやっている男の子のファンというわけではなく、みんなが見るから「良家の子女のたしなみ」として、見たんだそうです。
 僕の家は良家ではありません。「良家の子女のたしなみです」は「K-20]という怪人20面相の出てくる映画のヒロイン役、松たかこさんの決め台詞であります。
 そりゃ、「ヤッターマン」より「K-20」のほうが面白かったけれど、娘には、もうすこし、オリジナルなセリフを考えてほしいものであります。

 さらについでに、「スラムドッグミリオネア」に似た設定のドラマ「クイズショー」一回目を見たときに、瞬時に思いついた最低にありきたりの最終回……最後の解答者は司会者本人……そして明かされる司会者の過去……そんなラストだったら、日本のテレビドラマは視聴者を馬鹿にしていすぎます。
では……