首藤剛志のふらふらファイル箱

人並みのつもりにしては、ふらふらしています。

「花よりもなほ」「ナイロビの蜂」

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MACのノートブックの調子が悪いので、渋谷のMAC専門店に行った。
 調子の悪いところはすぐ直ったが、このブログが推奨する環境はウインドーである。
 インターネットのブログ環境の為に、ウインドーのパソコンを買う気にはなれないので、僕のMACが動かなくなるまでは、このまま続けていくつもりである。
 さて、その帰り道に二本の映画を観た。
 「花よりもなほ」と「ナイロビの蜂」である。
 変な組み合わせだが、同じビルの映画館でやっていたから、はしごで観たのだ。
 「花よりもなほ」は江戸時代の貧乏長屋の博物館を見せられているような感じの映画だ。
 長屋に住んでいそうな人を、ひとつの貧乏長屋にずらりと陳列しているだけで、なにがいいたいのかよく分からない変な映画だった。
 一応、親のあだ討ちをしようと、あだ討ちの相手を探す為に長屋に住んでいる若いサムライが主人公だが、ついでのように、主君のあだ討ちをする赤穂浪士達まで、その長屋をうろつき回り、江戸時代の長屋ならありそうな事を、片っ端から並べた江戸時代へのノスタルジーだけが印象に残る映画である。
 落語から拝借したようなエピソードが、色々出てくるが、どうも様になっていない。
 宮沢りえさんが、子持ちの後家さんになって出てくるが、あんなきれいな身なりの女性が、長屋に住んでいるとは思えないし、そのほか落語的なエピソードも、余り笑いを誘えない。
 似たような感じの映画に「三丁目の夕日」を思い出した。
三丁目の夕日」は戦後の昭和を舞台にしていたが、その疑似ノスタルジーに辟易したが、今度はその江戸版というわけだろう。
 道具だけは並べたが、登場人物の人情にリアリティがない疑似ノスタルジー映画だ。
 徹底的にコメディにしてしまえば、それはそれでよかっただろうに、ほとんど笑えない。
 長屋の義理人情から、赤穂浪士まで、何でもかんでも並べれば、そこに何かが見えてくると、スタッフは考えたのかも知れないが、かえって散漫な疑似ノスタルジー映画にすぎなくなっている。
 最近、時代劇が増えているのは、悪い事ではないが、作っている人たちの感性が現代人から抜け出せないのでは意味がない気がする。
 どう装っても、疑似なのである。
 本物のノスタルジーは生まれない。
 「花よりもなほ」の調子では貧乏長屋を語るのは無理、やっぱり古典落語で聞くのが一番のような気がする。
 一方の「ナイロビの蜂」は、アフリカの貧しい人々を食い物にする製薬会社や政治の巨悪をあばくサスペンス映画を装っているが、本質は夫婦愛の話である。
 それなりによくできているし、役者も上手いし、アフリカのロケも効果を上げている。
 「親に感謝しようと思う時、親はなし」
 ではなく、「妻を本気で愛そうとした時。妻は殺されていた」と言う話である。
 妻がやりかけていた巨悪への挑戦を、夫が成り代わって果たす。
 それしか、最愛の妻を失った男には、することがなかった。
 そして、目的を果たした時、まるで後追い心中のように、死ぬ。
 つまり、「ナイロビの蜂」は、かなりテンションの高い純愛映画だった。
 ただ、妻の死の謎を追う主人公の夫の前に、都合よく情報提供者が出てくるのが気になるし、巨悪の本当の被害者である貧しいアフリカ人達の悲惨さが、はっきりと描かれてはいない気がする。
 所詮、善意の白人達が、自分たちの巨悪を告発するという範囲に収まって、そこにアフリカ人達の貧しさと悲しみを訴える所まではいっていない。
 しかし、それは、西洋のヒューマニズム映画としての限界で、要求する方が無理かも知れない。
 純愛映画として割り切って観れば、これはこれでいい。
 妻を亡くした夫を演じたレイフ・ファインズがいいし、何者かに殺され、夫の回想の中で描かれる妻役のレイチェル・ワイズもいい……この映画でアカデミー助演女優賞をとった……
 ところで僕の妻が、やたらとこの映画を薦めていたが、どういう意味だろう。 
 僕はレイフ・ファインズではない(^_^;)