首藤剛志のふらふらファイル箱

人並みのつもりにしては、ふらふらしています。

テラビシアにかける橋

 昨日、テレビで日本アカデミー賞の最優秀賞の発表があった。
 投票を忘れて棄権した僕がいうのもなんだが、結果は???だった。
 というより、いささかびっくりした。
「東京タワー、オカンと……」のお涙ちょうだいも、悪い映画じゃないと思うが、裁判に対する現代的な問題をテーマにしながら、しかも長時間、観客を退屈させず見せきった「それでもボクはやっていない」より、優れているとはとても思えない。
 投票者が、前にこのブログに書いたように大手映画業界関係(それだけにはないにしろ……)にかたよっているから、仕方がない結果ともいえるかもしれないが、年に数本しか見ない一般の人が、日本アカデミー賞の結果で、見る映画(今は両方ともDVDになっているが……)を選択するとしたら、かなり問題だと思う。
 脚本家に関して言えば、アカデミー賞の会員に日本シナリオ作家協会員は加入できるが、脚本家の数ならシナリオ作協の数倍もいる日本脚本家連盟員には加入資格がないのが現状である。
 結局、日本アカデミー賞とは、大手映画関係者達のお祭りにすぎず、作品自体の評価には、必ずしも結び付かないと言わざるを得ない。
 で、話は変わるが、先日、小学校六年生の娘と観にいった「テラビシアにかける橋」について少し書こうと思う。
 子供を主人公にした映画としては、僕がここ数年見た映画の中では、ダントツにいいと思う。
 いい映画だが、最近のがちゃがちゃとCGを駆使したファンタジーに比べると地味である。
 そのせいか、金曜夕方の映画館は、がらがらどころか、観客は十人もいなかった。
 あんまりひどい客の入りだから、少しよいしょしたくなった。
 正直なことをいうと、首をひねる点もある。
 子供の想像する「テラビシア」の世界が、映像として出てくるが、この映画の映像表現でいいのか?と疑問を持ってしまうのである。
 子供が想像する世界を、果たして大人が映像化できるのか?
 読者が勝手にその世界を思い浮かべることができる小説の文章では可能でも、映像で見せることができるのか?
 だが、そんなことを言い出したら、ファンタジーの映像化などできなくなってしまうことも確かだ。
 この映画だって、製作者が「テラビシア」をCGで、映像化できると思ったから映画化が実現したのだろう。
 だから、この映画に出てくる想像の「テラビシア」の映像は我慢した。
 そんな映像に勝る部分がこの映画にはあるからだ。
 それはこの映画の現実描写の部分である。
 子供たちの家庭、学校、そこに登場する人々が、実にきめ細かく描かれている。
 想像の「テラビシア」以外の脚本部分にぼくはとても感心した。
 いちいち、その部分を書くときりがないが、一歩、間違うとあざとい泣かせどころになる部分を、淡々と描いて、それでいながら、しっかりと涙腺を刺激する。
 劇場内はわずかしかいない観客のすすり泣きが聞こえ、僕自身も知らず知らず涙である。
 僕の娘は、なぜ、大人が泣くのか?きょとんとしている。
 泣いているのは、忘れていた(実際に経験したかどうかはともかくとして)子供時代を思い出した大人たちなのだ。
 この映画に描かれている現実の描写部分が、大人にとって、涙を誘うファンタジーなのかもしれない。
 子供の想像する「テラビシア」を描いているように見えながら、実は現実の部分が大人にとってのファンタジーという逆転したような構造が見事だ。
 僕としては、学校にいるいじめっ子への仕返しの残酷?さと、その後処理のうまさ。
 大都会の美術館で、男の子が興味を持つ原作とは少し違う展示物。
 保守的であろうアメリカの田舎で、信仰への……神や聖書に対する……疑問を主人公の一人の女の子があっさりと口に出してしまうこと(この部分は原作にもあるが)……これは、キリスト教圏の子供向けの映画としては、かなりすごいことのではないかと、僕は想像する。後で知ったことだが、原作者は八百万の神神の国、つまり何でもありの日本に住んだことがあるそうだ。
 ともかく、脚本を書くことを仕事にしてしまった僕としては、いい意味で驚きのある作品である。
 映画は空想の「テラビシア」で終わるが……原作は文章で上手く表現している……現実の中に「テラビシア」を見つけろというテーマは映画でもしっかり表現できていると思う。
 良く考えると、主人公の一人、転校生の女の子の存在自体が「テラビシア」に思えるところも感心する。
 残念なことに、劇場のこの客の入りでは、短期間で上映が終わってしまいそうだから、レンタルDVDにでもなったら、もう子供ではない人に、ぜひ、お勧めしたい映画だ。